『トロン・レガシー』でもそうであったが、コシンスキーはリドリー・スコットに幾分似ている気がする。

そりゃ、勿論手腕の差はあるし、あんなにうまくカットバックを使わないけれども、アウトセットの作り方は見事だ。それは常に象徴的で、物語で直接語られない物語を語ろうとしている。

中でも物語の終盤に登場する、ワイエスの『クリスティーナの世界』が一番目につく。クリスティーナは足が不自由でありながらもその溢れんばかりの生命力を発揮し、それに感銘を受けてワイエスが描いた傑作だ。ピーナッツの『人は配られたカードで勝負するしかないのさ、それがどういう意味であれね』の言葉の如く、自身の運命に立ち向かい、進むべき道を見つける主人公たちの姿をあらわす。と同時に、このシンプルながらも象徴的な絵は、ジャックがジュリアにこのように強く生きてほしいという願いや次の世代や残された者たちへの希望をも映し出しているだろう。また、管理が行き届き、即物的ともいえる世界に思い悩む彼らにとってシンプルで生物的な世界への回帰願望をひそやかに示す。

他にも、記憶をなくしまっさらな状態となった主人公の姿と呼応する、清廉で潔白なスカイタワーの描写やその失った記憶の状態を荒廃した地球の描写も目をひく対比となっている。彼が雲の上と下を行ったりきたりする序盤の描写は、彼が自身の過去や運命を模索し、悩む姿の象徴だ。

かつてE・ブロンテは、『嵐が丘』で復讐に燃えながらも、一途に愛を捧げるヒースクリフの心情と願望をそのランドスケープ描写と対応させて描いて見せたが、コシンスキーのその演出手腕はブロンテに似ている。
確かにあまりハリウッド的な手法ではないので、祖筋やオチだけをおった人には気づかない方が多いのもうなずけるが、こういう演出手腕をあまり評価できていないのは悲しいと思う。『月に囚われた男』や『地球、最後の男』のようなオチに重きを置いた作品でもあるまい。

しかし、ここまで評価しておいても看過できないのはその尺とテンポ、またアクションのキレの無さだ。
特に、前作でもそうだったがすばらしいガジェットを
用いつつも、あまり生かせていないのはもったいなさ過ぎる。カメラワークがあまりに凡庸すぎるのが欠点だ。ここに監督らしいというような演出が加われば次作『トロン・レガシー2(仮題)』は傑作に成りえると思う。


※以下補足。

公開時、なぜ49号(実はクローンである主人公)だけが他のやつらとは違い、真実にたどり着けたのかをやたらと批判している評が見受けられたが、何故なのだろうか?

トムふんするクローンのオリジナルの気質なのだろうが、任務の途中で多分にヴィガ(タワー)の命令に反した行動をとることからもわかるとおり好奇心旺盛なキャラである。そして、それを知ったモーガン扮するキャラに禁止区域へ立ち入ってみろとの実質的な指示を受けているシーンがある。その結果、この行動の帰結として、今までに前例の無い、クローン同士の接触というイレギュラーがあり、彼の好奇心やジュリアへの愛も手伝い真実に導かれるわけである。かなり明瞭に説明されていたのだが・・・・。

また、エイリアンの目的が不明瞭であるとのことだが、あの状況から推測されるのは何らかの資源。それは恐らく海水だと推測できる。また、それは確実に断定できなくとも問題ないと思う。

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