『偽りなき者』火のない所に立った煙 8.5/10
2013年11月18日 映画デンマークはその社会福祉の行き届き方や個人の権利、男女平等という観点の元、しばしば世界で一番幸せな国として説明される。
本作は、『光のほうへ』で高い評価を得たトマス・ヴィンターベアがその幸福の表層の奥に潜む、忌むべきものを映し出した傑作。小さな村を舞台に、子供のついた嘘が、白紙に垂らされた黒いインクのように染み渡り、人々の心をドス黒く染めてしまう様を容赦なく描いたものだ。
監督は映画という物語の中にも、的確な社会問題への言及を行うことで国内外から評価されているが、その手腕は物語後半の教会のシーンの挿入で遺憾なく発揮されている。
それは、村の多くの人々がクリスマスの夜に教会に集るシーンだ。デンマークでは、国教を福音派ルーテルにおき、実に国民の約8割超が属している。しかしながらも、教会に実際に祈りに行く人は極少数であり、形骸化しているのが現実らしい。劇中でも登場人物たちが教会に行く日常は描かれない。
そんな欺瞞の中でも、クリスマスだけは教会に集り神に祈る。
そこへ現れた主人公の姿を見て、人々は動揺する。それは、どのツラさげてここに登場できたかというものよりも、あらゆるリスクを省みずに清廉潔白を表明しにきた彼が実は真実であるかもしれない、という思いからの動揺に思える。後に続くシーンでもそんな彼らの心の変化と、自身の中で事件発生当初よりあった疑念との葛藤が伺える。
また、ラストシーンでもヴィンターベア監督の前述の手腕は発揮される。
前作『光のほうへ』でデンマークの価値観として“社会からつまはじきされたものでも、もう一度人生をリスタートするべき権利がある”という美徳を描いた。本作でも同様だ。それは、その整った福祉を実現した彼らの基本理念にあるのだろう。そんなところは失敗を許さない国、日本とは異なる視点なので理解しがたい人もいるかもしれない。しかし、この作品のラストシーンには、そんな美徳すら形骸化し、失われつつあるという残酷な現実を突きつける。前作から一歩進んだ形で、自国を省みた監督だが、その中には勿論一条の光を描いている。(私は、この部分にやや強引さを感じたので完全に満足できなかったが)
内容の胸糞悪いので賛否あるだろうが、物語構成、テンポ、演技者、音楽、演出と完成度は認めざるをない傑作である。しかし、デンマークへの多少の理解がないとわかりにくいシーンもあるかも。特筆すべきは、主演のマッツ・ミケルセン。彼の演技は見事すぎる。前述の教会のシーンにおける表情や佇まいは比肩するものはないだろう。
※作中度々大人たちが、子供の言うことを疑わず信じるシーンがある。事件の発端とも言うべきものだ。これもデンマークの理念“子供はウソをつかない”というところから来ている。
監督は、これを悪く捉えて事の発端にしたわけではない。その裏には、子供も大人と同じく、罪やウソ、ずるさや残酷さも持っている一人前の人間である様を繊細に描く。そして、親の子供への関心の低さへの戒めとして。
※原題の『狩猟』は実にシニカルなタイトルだ。なぜなら主人公は猟友会の中に身をおきながらも、その獲物とされてしまうからだ。デンマークでは、皮肉は高尚なユーモアとして捉えられるらしい。この作品にユーモアを感じる余地はないが・・・・。
両親の不仲や初めて抱いた感情の行き所のなさから、自身のみのを置き場を失っていた少女。彼女を常に支えていた主人公が、最大の罪人として描かれるとは、恐ろしいユーモアである。
※タイトルにした火のない所にたった煙は、或る意味この作中でもっとも罪深き人物、幼稚園の園長を演じた女優が本作を説明するのに使った言葉の意訳である。
女性の権利の尊重が行き過ぎたことでも男女平等の崩壊も感じさせる女性象の描き方だったし、かなり的確かもしれない。事実を確認せず、また自分本位で、感情により行動する動く園長やクララの母親のヒステリックな女性像はすごくリアルで戦慄する。
※この作品は、わが国の痴漢冤罪事情とも重なり身近に感じられるだろう。いわゆるやっていないことの証明であり、“悪魔の証明”の難しさと怖さを描く。また、ただの噂だけで悪を決め付け、間違った正義感を振りかざす姿も似ている気がする。
実際にはわが国では、逃げることを選択しないと完敗するようだが・・・・(『それでもボクはやってない』と並ぶ男性向け最恐作品かもしれない)。
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