『ゼロ・グラビティ』/ファンタジーとリアルの狭間
2014年1月8日 映画 コメント (2)ゼログラビティからグラビティへ。
それは単に無重力空間からのサバイバルではない。
グラビティが持つ、重力以外の意味。事態の重さ、罪の重さ。
その全てを経て、認識することで彼女は地上に降り立ち、新たな生を手に入れる。そこは思わず、ひざをついてしまうほどに色々なものがのしかかってくる場所であるが、それ故に自身の存在を実感し、肯定できる場所だ。
何かの制約があることが心地よく、物事を容易にするということはみな体験があると思う。
しかし、全てからの解放を求め、また更なる発展と自由を求めて出た先で、そんなことを再認識することになろうとは。
本作の主人公は、宇宙空間にでてはじめて、皮肉なことに人は縛られることで、重さをもつことで自身の体を実感し同定することを思いしる。
そんな中、インナースペースに自身の形を求めるも、そこにあったのは遠い過去にあった喪失と罪の記憶。
永遠に広がる虚空と共鳴してか、過去の喪失と罪の記憶もまた彼女の中に広がっていく。白紙に垂れた一滴のインクの染みかのように。地上で負った傷と罪の重さは、地球よりも、逃避してきた宇宙でより重くのしかかる。そしてそんな彼女を襲う晴天の霹靂とも言うべき事故。
この事故で彼女は、多くを失うが、と同時に多くを得る。全てから逃げてきた自分が一人になっても、全てを失っても生きてきた理由を認識するのだ。過去も罪も傷も受け入れ、そういうものあっての“生きる”ということなのだと再認識する。そして、今度はそれらはわすれるのでも、逃げるのでもなく礎としてより強固な自身を築き上げようと立ち上がり、一歩を踏みしめるのだ。(母なる地球へ帰った彼女の、再び母となろうという道への一歩であるのかもしれない)
彼女が失い、そして再び手に入れたそれは決してゼロなどではない。
■極力リアルに徹した演出は、多くの音を奪い映像に我々を釘付けにする。
縦横無尽に動くカメラの動きはそれだけで驚異的で、どのような始点と終点を作りシューティングしているのかまるで想像できない。
エマニエル・ルベツキの映し出す美しい映像はアルフォンソ・キュアロンの持つ感性と互いを高めあい唯一無二の映像世界を完成させている。
撮影方法を公開しないことを公言している本作であるが、驚異のワンショット長回しは恐らく『トゥモローワールド』でも見て取れた擬似の長回しの延長。しかし、宇宙空間を漂う感じを見事にシームレスというショットが捉えている。隣にいるかのような臨場感だ。また類まれな映像演出はそこだけでない。
リアルであるだけならばドキュメンタリーでよい。しかし、監督は、本来ならおこりえぬ現象を自然に取り入れてそこにエモーショナルな物語を作りだした。
無重力空間で涙が粒とならないことは有名であるが、わざと粒を写し、しかもその中に役者の顔を反射させて写している。
まさにリアルとファンタジーの間を描き出している。見事なり。
※新たな生を得る、赤子のように立ちあがるその姿を象徴するかのように劇中には様々なモチーフとなる映像が出現する。
※監督がインタビューで答えているように、アウトセットはどこであってもよかったのだろう。よりドラマチックで生と死、自由と不自由という対象の二項対立が描きやすかったから宇宙を選んだだけのことだ。
コメント
物語も技術的側面も色々なレベルで楽しめる作品かなと思います。DVDには是非メイキングの詳細が欲しいですね。
※撮影方法は明かさないとしていましたが、メイキング出ましたね。やはり公開の要望が大きかったのでしょうか。にしてもこの作品のためにかような新しい撮影装置を生み出すとは、他の映画とは出発点すら異なっていて興味深いです